通常展では、①夏目漱石と新宿、②漱石の生涯、③漱石作品の世界、④漱石を取り巻く人々、⑤漱石と俳句、⑥漱石と絵画などのテーマについて、グラフィックパネルや映像でご紹介いたします。また、漱石が暮らした「漱石山房」の一部を再現し、創作や弟子たちとの交流の場であった書斎や客間、ベランダ式回廊を体感していただきます。このほか、新宿区が所蔵する草稿や書簡、初版本などの資料も展示公開いたします。
グラフィックパネルや映像などにより、漱石と新宿の関わり、漱石の生涯、人物像、漱石の家族など、漱石を知る上で基本的な情報をご紹介します。
「漱石山房」の一部、書斎・客間・ベランダ式回廊を再現するとともに、この客間で毎週開かれた「木曜会」のこと、この書斎で執筆された随筆『硝子戸の中』の世界、「漱石山房」再現の取り組みなどについてご紹介します。この書斎で再現した複製品等は、県立神奈川近代文学館の協力のもと、同館が所蔵する原資料をもとに製作しました。また、書棚に納められた洋書は、東北大学附属図書館の協力のもと、同館の「漱石文庫」の蔵書の背表紙を撮影し、製作しました。
グラフィックパネルや映像などにより、漱石と作品世界、漱石を取り巻く人々(52名)、漱石と俳句、漱石と絵画などについて紹介するほか、新宿区が所蔵する草稿や書簡、初版本などの資料を展示公開します。
大正4年6月3日から9月14日まで東京・大阪朝日新聞に連載された自伝的小説『道草』の草稿。同じ部分の書き直しやインクの痕跡が見られ、執筆の苦心や作品成立の過程がわかる資料です。
大正5年5月26日から12月14日まで東京・大阪朝日新聞(※大阪朝日は12月27日)に連載された漱石の遺作『明暗』の草稿。裏面全面に墨書の落書きがある。
大正3年8月12日付の『東京朝日新聞』に発表された。帝国大学大学院時代に美学の講義を受け、漱石の思想にも大きな影響を及ぼした哲学者ケーベルが帰国することになった際、漱石に託された教え子たちの告別の辞を、漱石自身の回顧録も交えて書かれた作品。結局ケーベルは第一次世界大戦により帰国できず、9年後に日本で生涯を閉じている。
明治41年9月14日に漱石が弟子で俳人の松根東洋城に宛てた葉書。『吾輩は猫である』の猫の死亡を知らせる内容で、東洋城のほか小宮豊隆・鈴木三重吉・野上豊一郎に出したとされる。内容は、病気療養中だった猫が裏の物置のへっつい(かまど)の上で死んでいた。車屋に頼み蜜柑箱に納めて裏庭に埋葬した。「三四郎」執筆中につき会葬には及ばないというもの。
明治35年3月10日に漱石が留学先のロンドンから矢来町の実家で暮らす妻・鏡子に宛てた書簡。長女・筆子と、鏡子の弟・中根倫(ひとし)の日記を読み、両名の成長を喜ぶとともに、倫に対して青少年期の学習と修養が成人してからの人間の価値を決めるので精進するように記している。
南蛮模様の襦袢で、前身頃に墨や赤のインクの飛んだ痕がある。
漱石山房の木曜会にも出入りし、漱石に油絵を教えた画家津田青楓の「漱石先生像」。紙本・墨画、掛幅装。大正5年9月漱石作の七言律詩が書き添えられている。青楓は『道草』『明暗』の装丁も手がけたほか、「漱石先生読書閑居之図」(新宿区蔵)も描いている。